運用スタイルについて
運用スタイルとは、投資スタイルとも言いますが、一定の決まりごとに基づいて運用を行う際のその基本となる考え方や手法の総称です。 例えば、代表的な運用スタイルとして、各指標などの価格に注目するのがバリュー型と言い、収益率などの成長性に注目するのがグロース型です。 投資家が自分の運用目的に合った商品を選択するためには、投資対象の運用スタイルも重要な要素です。 を完全に支配下においたサラーフッディーンであったが、主君ヌールッディーンから領土的野心を疑われ、この頃から両者の関係は急速に悪化しはじめたようである。ヌールッディーンは再三ダマスクスへ帰還するよう勧告を行っているが、サラーフッディーンは理由をつけてこれを幾度も固辞し続けついに応じなかった。この時期にサラーフッディーンはファーティマ朝時代のシーア派色を払拭すべくダール・アル=イルム(知識の家)を解体してその蔵書を売り払い、アッバース朝カリフとヌールッディーンの名を刻んだ貨幣を鋳造しフトバを唱えさせるなどして、スンナ派政権としてヌールッディーンへの帰順を重ねて表明した。またその一方で1174年2月兄のトゥーラーン・シャーをイエメンへ派遣してこれを征服させている。これは関係が悪化したザンギー家との開戦を予期し、エジプトを逐われた場合のアイユーブ家の避難所とする目的で征服したのではないかと考えられている。これ以降ラスール朝が勃興するまで、イエメンはアイユーブ朝の領土となる。 ヌールッディーンはこれらサラーフッディーンの行動を離叛・敵対行為として赦さずエジプトへ自ら親征を企図していたようだが、その矢先の1174年5月に病没した。 、ヌールッディーンがダマスクスで没すると、その幼い息子サーリフが即位したが、ヌールッディーンの兄弟であるモスルのアタベク・サイフッディーン・ガーズィーがアレッポ近傍まで軍事侵出して来た。さらにエルサレム王国などの十字軍勢力もこの機会を逃さず積極的にダマスクス周辺へ侵攻し、シリア周辺はにわかに情勢が流動化した。7月末にサーリフがアレッポへ入城し、サイフッディーン・ガーズィーも慎重策をとってアレッポ征服を断念してシリアから撤退した。ところがアレッポのザンギー朝アミールたちは庇護を受けていたサーリフを見限ってサイフッディーン・ガーズィーと協定を結びダマスクスに対抗しようと画策したようである。これに焦ったダマスクス宮廷は、サーリフへの擁護を表明していたサラーフッディーンに援軍を要請して来た。かくしてサラーフッディーンはこの機会を得てシリアへの親征、同年10月末にはダマスクスに無血入城を果たした。運良くアモーリー王が急死してボードゥアン4世が即位したため、エルサレム王国軍も撤退した。サーリフへの臣従表明とダマスクス宮廷とそのアミールたちとの和議および説得を試み、さらにこの地域でのイクターの再分配を行っている。サラーフッディーンは数年ぶりにダマスクスへ帰還し、エジプトに加えダマスクス周辺のシリア南部を接収することが出来た。 ipoにしてサラーフッディーンはシリア方面へ領土を拡大し、イクター地や騎士などの諸軍を整備して王朝の軍事力を高めた。そして1187年、それをもってエルサレム王国を攻撃し、7月にハッティンの戦いで十字軍の主力部隊を壊滅させたのち、エルサレムを同年10月までに奪還することに成功した。このとき、サラディンはエルサレム軍の捕虜を、身代金を支払うことで命を助けるという寛大な処置を示している。 サラーフッディーン廟。世界最古のモスクといわれるウマイヤド・モスクに隣接する。しかしそのため、1189年にヨーロッパ諸国はエルサレム奪還のためにイギリス王・リチャード1世を総司令とした第3回十字軍が侵攻してくることになると、さすがのサラディンも一時、アッコンを奪われるという窮地にまで追い詰められた。しかし、サラディンは敵の猛攻に耐え、1192年、十字軍と休戦条約を結ぶことに成功したのである。これにより、エルサレムをはじめとする広大な領土が、アイユーブ朝の領土として確定するとともに、十字軍も往時の勢いを失うこととなった。 しかしこの戦いで精根尽き果てたのか、翌年サラディンはダマスカスにて病死した。 かつてエルサレムを占領した第1回十字軍、あるいは第3回十字軍を指揮したリチャード1世は捕虜を皆殺しにした。しかし、サラディンは敵の捕虜を全員助けている。彼は軍事の天才であるが、このような寛大な一面もあって、敵味方を問わずにその人格は愛され、現在まで英雄としてその名を残しているのである。また当時のイスラーム君主の常として少年を愛したことでも知られている。 個人向け国債にも、途中で立ち寄った村の村人たちに軍事費の一部を分け与えていた。そのため、彼の兵士の殆どは軍事費をヘソクリしなければならなかった程であったという。 捕虜を助けた事に関して、次のような逸話がある。サラディンが大勢の兵士を捕まえ、その扱いを考えていると彼の弟が捕虜を少し自分に分け与えるよう進言した。サラディンは訳を訪ねるが弟は答えず、彼の言う通りに捕虜を与えてやった。すると、弟は自分の物だからと言って全て解放してやり、こうするのが良いのだと兄に言った。喜ぶ兵士たちの姿を見たサラディンは捕虜を殺さないことを決心したという。また、病床にあるリチャード1世に見舞いの品を贈る等、敵に対しても懐の深さを見せている。 1169年、サラーフッディーン(サラディン)が、ファーティマ朝の軍最高司令官と宰相の地位を兼任し、年内までにエジプトにおける全権を掌握して、アイユーブ朝を創設した。1171年、ファーティマ朝の第14代カリフ・アーディドが死去すると、ファーティマ朝を完全に滅ぼし、名目上はアッバース朝に臣従するという形式のもとにスルタンを称した。このため、アイユーブ朝の成立は1171年説もある。 その後しばらくは内政に専念したが、1174年にかつて自身が仕えていたザンギー朝のスルタン・ヌールッディーンが死去すると、そのもとから独立してシリアに侵攻し、同地を併合してエジプト、シリアに広大な支配圏を築き上げたのである。 資産運用の休戦協定違反を契機としてサラーフッディーンはエルサレム王国に侵攻し、7月に有名なハッティンの戦いで十字軍に大勝し、10月には約90年ぶりのエルサレム奪回を果たしたのである。このため、1189年からイギリス王・リチャード1世を中心とした第3回十字軍の反攻を受けたサラーフッディーンは、十字軍にアッコンを奪回されるなどの苦戦を強いられたが、十字軍の猛攻によく耐えて1192年、和睦を結ぶにいたった。この和睦により、エルサレムをはじめとする領土のほとんどはアイユーブ朝の支配圏として確立することとなり、十字軍はシリア沿岸にわずかな領土を有するまでに没落してしまい、往時の力を失うこととなったのである。 その後、サラーフッディーンは1193年、ダマスカスにて病死した。 サラーフッディーンの死後、スルタン位は次男のアル・アジーズが継いだ。しかし、サラーフッディーンは17人の息子に分割相続させてしまったため、兄弟内における権力闘争が起きることとなる。アル・アジーズにはこの権力闘争を抑制できる力は無く、1198年に不慮の死を遂げている。 アル=アジーズの死後、王朝の主導権はサラーフッディーンの弟・アル・アーディルが掌握し、サラーフッディーンの長男であるアル・アフダルをはじめとする息子たちの権力闘争を抑えて、1202年にスルタンとして即位した。 アル・アーディルは西欧諸国との融和を図り、十字軍との休戦協定の更新を行なった。さらにベネチア共和国と貿易を行なって経済交流を積極的に奨励するなど、アイユーブ朝の発展に尽力した。このため、アーディルの在位中は十字軍との関係も良好で、平和が訪れたのである。 しかし1218年、第5回十字軍が来襲してくるとアーディルは心臓発作のために死去し、その後を息子のアル・カーミルが継いだ。カーミルは十字軍にダミエッタを支配されるなど一時は劣勢に立たされたが、1221年に反攻して大勝した。だが、エジプト国内でカーミルの継承に不満を持ったアイユーブ朝の王族による内紛が起こったため、カーミルは十字軍に対応するどころではなくなり、1228年にエルサレムを十字軍に譲渡することで和睦し、国内の反乱に全力を向けた。このため、反乱は鎮圧されたが、エルサレムの放棄は王朝にとって大きな損失ともなったのである。