運用ガイドラインについて
運用ガイドラインとは、資産運用会社が委託運用をするにあたり、個別の受託機関に対して運用会社として必要な投資方針、投資基準及び投資手順を具体的に提示したものです。
具体的には、受託機関が遵守すべき資産構成割合の基準および乖離幅など資産構成についての方針、運用手法、ベンチマーク、運用業務の報告内容・方法等です。
不動産投資、北条義時が執権となり、北条氏権力の確立に努めたが、侍所別当の和田義盛が対抗勢力として現れた。義時は計略をめぐらし、1213年、和田一族を滅ぼした(和田合戦)。このように、武力紛争が絶えない幕府の状況は、1219年(承久1)1月の将軍・源実朝の暗殺という最悪の事態に至る。頼朝の直系が断絶し、困惑した幕府は、朝廷へ親王将軍を要望したが、治天の君・後鳥羽上皇はこれを拒否し、曲折の末、頼朝の遠縁に当たる摂関家の幼児藤原頼経が新将軍=鎌倉殿として迎え入れられた。この後の2代の鎌倉殿は摂家将軍と呼ばれる。こうして幕府の実権は、執権の北条氏が掌握することとなった。
ワラントは、治天として専制的な政治を指向し、幕府の存在を疎ましく感じていた。実朝の暗殺を幕府の混乱・弱体化と見た後鳥羽は、幕府打倒を計画するようになった。そして、1221年(承久3)5月、後鳥羽は北条義時追討の院宣を発した。それまでの歴史から後鳥羽は、ほどなく義時が討ち取られ、関東武士たちも帰順すると見込んでいたが、幕府側は、頼朝以来の御恩を訴え、御家人の大多数を味方につけた。そして、短期決戦策を採り、2ヶ月も経たないうちに朝廷軍を打ち破った。
幕府側の主導で戦後処理が進められた。主謀者の後鳥羽上皇、そして後鳥羽の系譜の上皇・皇子が流罪に処せられ、仲恭天皇は退位、朝廷側の貴族・武士も多くが死罪とされた。当時の人々は、治天の君をはじめとする朝廷側の上皇・天皇・諸臣が処罰される事態に大きな衝撃を受けた。当時の社会における価値観は正反対に転換した。朝廷の威信は文字どおり地に落ち、幕府は朝廷監視のために六波羅探題を置き、朝廷に対する支配力を強めることとなる。
くりっく365は、次代の天皇を誰にするかを幕府へ諮った。これ以降、朝廷は治天・天皇を決定する際は必ず幕府の意向を確認するようになり、幕府と朝廷の立場が逆転したことを物語る。
1224年に北条義時、1225年に北条政子や大江広元といった幕府創業世代が死去し、義時の子北条泰時が執権となった。泰時は、世代交代期の混乱を防ぐため、叔父の北条時房を執権の補佐役といえる連署に当てるとともに、政治意思決定の合議機関である評定衆を設置し、集団指導体制を布いた。
承久の乱後、急増した訴訟事件を公平に処理するため、泰時は明確な裁判基準を定めることとした。これが御成敗式目と呼ばれる法典(武家法)であり、平易で実際的な法令と評価されている。後の室町幕府も、この法令を原則として継承している。また、泰時は、式目制定に当たって、朝廷の司法権を侵害するものでないことを強調している。
外為の一連の施策は、執権政治の確立と捉えられている。鎌倉幕府は、頼朝以来、鎌倉殿の個人的な資質に依拠するところが大きく、その組織も鎌倉殿の家政機関を発展させただけのものだった。しかし、泰時が確立した集団指導体制・明確な法令による司法体制は、個人的な資質などの不安定な要素に左右されることはなく、安定した政治結果を生み出すものだった。
泰時の孫北条時頼は、泰時の執権政治を継承していった。時頼は、司法制度の充実に力を注ぎ、1249年、裁判の公平化のため、引付衆を設置した。一方で、執権権力の強化にも努めた。1246年、時頼排除を企てた前将軍・藤原頼経と名越光時一派を幕府から追放する(宮騒動)と、1247年には有力御家人である三浦泰村の一族を討滅した(宝治合戦)。1252年、幕府への謀叛に荷担した将軍藤原頼嗣が廃され、代わりに宗尊親王を新将軍として迎えることに成功した。これ以後、親王将軍(宮将軍)が代々迎えられ、親王将軍は幕府の政治に参与しないことが通例となった。こうして、親王将軍の下で専制を強めていった北条氏は、権力を北条宗家へ集中させていった。時頼は、病のため執権職を北条氏支流の北条長時に譲ったが、実権を握り続けた。これにより政治の実権は執権の地位と乖離していく。北条宗家を当時、得宗(徳宗)と呼んだことから、上記の政治体制を得宗専制という。
外為の孫・式膽王及び興我王の子孫が平朝臣を賜姓されて臣籍に下ることによって成立した氏族。なお「光孝天皇の皇子・是忠親王の子孫が「平朝臣」を賜姓されて臣籍に下ることによって成立した氏族」を光孝平氏と定義している文献もあるが、是忠親王の子孫でも源康尚(源康行の子。康尚の祖父・英我王は是忠親王の子)のように源朝臣を賜姓されて光孝源氏となった者もいるため、正確には式膽王及び興我王の子孫が光孝平氏である。また、平高棟の孫・平中興は是忠親王の子・忠望王の養子になったため、血筋からみると高棟王流桓武平氏だが中興の子孫は光孝平氏である。従って平元規(中興の子)も光孝平氏である。
同年、源義経・源行家が頼朝政権の内規に違反したことを契機に、頼朝は両者追討の院宣を後白河法皇から獲得するとともに、両者の追捕を名目に、守護・地頭の任免権を承認させた。これを文治の勅許という。これにより頼朝政権は、全国の軍事権・警察権を掌握したため、この時期をもって幕府成立とする説が有力とされている。守護・地頭には、兵糧米の徴収権、在庁官人の支配権などが与えられ、これは頼朝政権が全国的に在地支配を拡げる契機となった。このときの頼朝政権の在地支配は、まだ従来の権門勢家による支配に優越した訳ではなく、地頭の設置も平氏の旧領(平家没官領)に限定されていた。
1189年、頼朝政権は、奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼし、完全に東国を掌握した。1190年、頼朝は常設武官の最高職である右近衛大将に補任されたが、同職には様々な政治的制約も付随していたため、すぐに辞し、より自由度の高い征夷大将軍を望むようになった。これに反対していた後白河上皇が1192年に死去すると、源頼朝は武家政権の始祖として武士に神聖視されることとなる。これにより、鎌倉幕府の形成がひとまず完了することとなる。ただし、1221年の承久の乱での勝利をもって幕府の成立とする見解もある。
以上のように、鎌倉幕府は元々、源頼朝の私的政権に発している。この私的政権は、朝廷から承認されることによって、支配権の正統性を獲得していった。そのため、幕府の支配権の及ぶ範囲は主として頼朝傘下の武士に限られ、少なくとも承久の乱までは朝廷側勢力(権門勢家)の支配権を侵害しないことを原則としていた。また、幕府機構を見ると、朝廷のそれと大きく異なり、鎌倉殿の家政機関としての性格を色濃く残していた。
鎌倉幕府の成立をどの時点とするかについては、次のような諸説がある。
1180年(治承4年)…頼朝が平家追討のため配流先の伊豆国で挙兵する(頼朝と在地武士との主従関係の成立)。
同年…頼朝が侍所を設置する(武士支配機構の成立)。
1183年(寿永2年)…頼朝が寿永二年十月宣旨により朝廷から間接的に土地支配権を認められる。
1184年(寿永3年)…頼朝が公文所(後に政所と改称)、問注所を設置する(行政・裁判機構の成立)。
1185年(文治元年)…平家が滅亡する(敵対武家勢力の消滅)。
同年…頼朝が朝廷から守護・地頭の設置を認められる(文治の勅許:軍事・警察・土地支配権の確立)。
1189年(文治5年)…頼朝が源義経とこれを匿った奥州藤原氏を滅ぼす(全国の武士を動員し、対抗しうる武家勢力を排除)。
1190年(建久元年)…頼朝が右近衛大将(律令制における武官の最高位)に任じられ治安維持に関する17ヶ条に及ぶ命を受ける(後の大犯三ヶ条)。
1192年(建久3年)…頼朝が征夷大将軍に任じられる(兵馬の権=全国の武士に対する軍事指揮権を公認される)。
1221年(承久3年)…北条氏を中心とする軍勢が承久の乱で後鳥羽上皇方を破る(全国特に西国掌握の完了、朝廷の掌握)。
なお、鎌倉幕府は、ある一時期をもって成立したと見るのではなく、徐々に数段階を経て成立したとする見解が支配的である。
鎌倉幕府の確立を成し遂げた源頼朝は、1199年(正治1)1月に突然死去した。跡を継いで鎌倉殿となったのは、頼朝の嫡子で当時18歳の源頼家だった。しかし、幕府の有力者たちは、若年の頼家に政務を任せることに不安を抱き、有力御家人が頼家に代わって裁判と政務を執行する十三人の合議制と呼ばれる政治体制を築いた。この合議制の中心にいたのは頼家の外戚にあたる北条氏であり、北条時政・北条義時父子は他の有力御家人を次々と滅ぼしていった(1200年:梶原景時を討伐、1203年:比企能員一族を謀殺)。
1203年、重病に陥った頼家は、外祖父時政の手により伊豆の修善寺へ幽閉され、弟の源実朝が次の鎌倉殿・将軍位に就くと、翌1204年に死亡した。時政ら北条氏の手勢により暗殺されたと伝えられている。時政は、将軍実朝を補佐して執権と呼ばれる地位に就き、政治の実権を握っていった。翌1205年、時政は娘婿の平賀朝雅を将軍にしようと画策、朝雅と対立する畠山重忠を殺害し、実朝を廃そうとした。しかし、時政の子の義時と北条政子はこの動きに反発し、有力御家人と連帯して、時政を引退させるとともに、平賀朝雅を抹殺した。